守半本店創業者 守屋半助
守半本店創業者 守屋半助
守半本店の庭にて
守半本店の庭にて
守半海苔店初代守屋初重の妻みよと守半本店二代目守屋虎吉(姉弟)
守半海苔店初代
守屋初重の妻みよ

守半本店二代目
守屋虎吉(姉弟)
守半海苔店の庭にて(真ん中は初代守屋初重)
守半海苔店の庭にて
(中央は初代 守屋初重)
昭和初期の建物
昭和初期の建物
守半海苔店二代目 守屋精一郎
守半海苔店二代目 守屋精一郎
現在の店舗
現在の店舗
守半海苔店三代目 守屋清太郎
守半海苔店三代目 守屋清太郎
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創業期
当社の総祖は明治17年(1884年)に、入新井村(現在の平和島当たり)で守半本店を開業した守屋半助にさかのぼります。守屋家は代々豪農の家柄であり、守屋家5代目の守屋半助は商いの生業として、大森の生産地の特性を活かした海苔の卸を始めることにしました。半助の長男・虎吉は、当時販売の主流であった「ほしのり」を火鉢であぶることを考案しました。その成功をうけ、守屋半助は長女・みよに海苔の小売業「守半海苔店」を出すことを命じました。そして守半海苔店の初代店主・初重は、お茶の缶に入れる事で「やきのり」を保存し、販売することができると考え、売り出しました。
今では一般的な茶缶に入れた方法も、当時の日本で初めて販売したのは当社と言われております。残念ながら当時の文献等は残されていませんが、大森本場乾海苔問屋協同組合では「言われに相違ない」とされています。
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昭和期
明治創業からお客様に親しまれ、店舗のある大森の花柳界では“守半の海苔”をお土産にすると大変重宝される、と評判になりました。大森馬込地区の通称“文士村”でも利用されていたという逸話があります。晩年まで大森が生活拠点であった、NHK朝のドラマ“花子とアン”のモデルにもなった「村岡花子」さんも上御得意様でありました。その当時から働いていた前工場長も、よく配達で納めに行っていたそうです。村岡花子さんがご友人への贈り物にご利用いただいていたとのことで、お手紙も残っています。村岡家の皆様にはいまも大事にご利用をいただいており、創業時からのご縁、誠にありがたいことと存じます。
創業から現在まで品質第一で営業をしており、使用する海苔は、明治~昭和前期までは大森養殖で採れた海苔が中心、昭和前期の大森養殖終焉後は全国から買付けて焼き上げていました。東海地方からの海苔も扱っていました。
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平成期
平成に入り、それまでの全国の仕入れから、佐賀有明限定の仕入れへと変わりました。さまざまな海苔の比較をしてきた前工場長が当社の品質維持には、生育の環境条件などを鑑みて佐賀有明が一番適しているとの評価のもと決定しました。それ以降は工場長自身が直接佐賀まで出向き、目利きをして仕入れる、海苔製造小売では珍しいスタイルになりました。
明治からこの地で変わらず営業を続け、平成元年に初代から数えて4棟目となる現在の10階建ての建物になりました。その竣工式の際に記念品として、配布した海苔茶漬が好評となり、今ではやきのり製品を凌ぐ売上にまで成長しました。海苔茶漬は、名刺程の小さな袋の半分以上に海苔を詰め、器に空けたときに海苔のふんわり感が残るように詰めています。
今では海苔茶漬も含め、さまざまな海苔加工商品を販売するまでになりました。
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令和期
守半海苔店は、令和3年10月で創業120年を迎えます。近年はやきのりを店舗・電話受付で販売するスタイルだけでなく、さまざまな方法で、やきのりを知ってもらおうという活動をしています。平成28年には大田区主催の「大田のお土産100選」にて、「やきのり食べきりパック巾着袋入」が入賞しました。平成30年からは都内イベント会場やマルシェなどへ出店し、試食やPRツールなどでお客様とのコミュニケーションを大事にしながら販売しました。令和元年からは子供向け海苔体験教室を開催し、海苔ができるまでの話や工場での製造体験などを通じて、日頃食べている海苔のことをよく知ってもらう機会を設けました。この教室は、今ではよみうりカルチャー大森センターと共同で体験講座を開くまでになりました。
同時に社内では事業改革を推進し、平成28年からは業務部署を明確化、平成30年からは新卒採用活動やインターンシップ、令和元年には店舗POS自動つり銭化、令和3年にはネットショップ開設と、業務革新を推進してきました。
120年周年を迎えた現在、守半海苔店は次の100年を見据えて更なる飛躍をしていく所存です。